しまねの職人

【天野紺屋】広瀬絣 200年の伝統を守り、伝える

〜昔ながらの藍染めと機織りを未来へつなぐ〜

VOL.20

天野紺屋 天野 尚さん

かつて月山富田城の城下町として栄えた安来市広瀬町は、
明治から大正にかけて「広瀬絣」の産地として大いに賑わいました。

広瀬絣がこの町に伝わったのは、江戸時代後期の文政7年(1874年)のこと。
明治30年代には年間生産量が10万反以上、販路も全国に広がったそうです。

精巧な絵模様が特長で、弓ヶ浜絣、倉吉絣とともに「山陰の三絵絣」のひとつに数えられ、
大柄なことから「広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄」という評判も得ました。

最盛期には久留米絣をしのぐほどの勢いがあった広瀬絣ですが、
大正4年(1915年)の広瀬大火を機に急速に衰退していくことになります。

その広瀬絣の復興に尽力したのが、「天野紺屋」3代目の天野圭さんでした。
現在は4代目の融さんが広瀬絣を、5代目の尚さんが藍染めを手がけています。

城下町の面影を残す街道沿いの工房で、5代目の天野尚さんにお話を伺いました。

広瀬絣と共にあった天野紺屋の歴史

広瀬絣 天野紺屋の沿革
1870年に広瀬絣の織糸を染める紺屋として創業し、広瀬絣の染元と織元をやっています。
広瀬絣が町の一大産業だった当時、20軒以上あったという紺屋も戦後はうち1軒になり、広瀬絣もほとんど姿を消してしまいましたが、祖父の天野圭が復興に奔走し、1962年に島根県の無形文化財に指定され、祖父も無形文化財保持者に認定されました。
その後、国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財と、島根県ふるさと伝統工芸品にも選ばれ、祖父も勲六等瑞宝章や現代の名工を受賞しました。
現在は4代目の天野融が広瀬絣を、5代目の僕は糸染めを担当しながら『青蛙』の名で藍型染めの作品を発表しています。
広瀬絣の特徴は
大柄な絵模様が広瀬絣の特長なんですが、これは広瀬藩の御用絵師であった堀江友聲が、反物幅に大きな柄一つの絣の図案をデザインしたことから始まったといわれています。
時代とともに小柄のものも増えていきますが、全国的に有名になったのは初期の大柄のもので、僕も大柄の広瀬絣は大好きです。
技術的な面では、ハシゴ状の160x40cmほどの緯綜台という道具に横糸(絣糸)をかけて、模様を実寸よりも縦長に切り抜いた型紙を当てて模様を糸に写し、白抜きの模様になる部分の糸を括って防染するという絣糸の作り方も、広瀬絣独特のものです。
元々は広い廊下など、糸を長く張れる場所がないと絣糸が作れなかったのですが、町の大工さんが場所を取らない横綜台を考案したことで、一般の家庭でも内職できるようになりました。
また模様の全体像を見ながら糸を括るので、より緻密な絵模様を間違えずに表現できるようになり、作業時間も短くなるなど、当時としては画期的な道具だったようですよ。
5代目を急に継がれたそうですが
跡継ぎとして祖父の働く姿を見て育ったので、自然に染め職人の道を選びました。
染織コースのある京都の大学を卒業し、帰省して藍の染めと管理を学び始めたところで、師匠の祖父が病気で倒れてしまい、修行不足のまま5代目を継ぐことになったんです。
病室に祖父を訪ねて藍の管理の仕方についてアドバイスを受けるものの、当時は理解できなくて、思うような色に染まらなくなってしまうなど、失敗の連続でした。
「どこが悪かったのか、何を間違えたのか」と、その度に目と鼻と舌で藍の状態を確認し、ひとつずつ体で覚えて、なんとか思うような色に染められるようになるまで5年ほどかかりました。
祖父は染料の顔を見て、感覚で「今こういう作業が必要だな」と感じ取ってやっていた。
1+1=2という理屈ではなく、感覚と直感が大事だということを祖父から教わりました。
祖父は「80歳になってもまだ未熟」と言っていたんですが、日々その意味を噛みしめています。

広瀬町の文化を伝承していくために

藍染め教室を開かれていますね
絣は染めが命、藍染めが絣の良し悪しを左右するともいわれているんです。
広瀬絣を後世に伝えていくためには、藍染めについても多くの人に知ってもらわなくては、という思いもあって藍染め教室を開催しています。
教室には国内・国外を問わず幅広い年齢層の方に来ていただいていて、シャツやストールを染め直してまた身に付けたいという方や、「わぁ〜!」と声を上げて出来上がった模様を見ておられる外国の方など、楽しんでもらっているなと実感しますね。
『青蛙』として藍型染めに挑戦したきっかけは
糸を染めるという仕事とは別に、僕のデザインしたものを手に取って使ってもらうものとしてかたちにできないか、という思いから始めたのが『青蛙』で、自分を表現するものでもあります。
実際に作品に触れて使ってもらうことで、より多くの人に藍の魅力が伝われば、と思っています。
作品づくりで大切にしていることは
嘘をつかないことかな、と思います。
例えば模様をつけるときに、「こうしたら喜ばれるんじゃないか」などと考えがちですが、それは僕が作りたいものとは少し違うものなんですね。
最初にピュアな状態で思い描いたものを、そのままかたちにすることを大切にしています。
お客様の声で印象に残っていることは
お客様の声ではないんですが、思ったままをデザインして素直に自分を表現するようになってから、「大事に使ってくれているな、長く身に着けてくれているな」といった、作品がそれまでよりも使い手の内側に入っているような、より近付いているなという感覚があります。
『ありがとう』のデザインについて
学生時代にデザインの勉強をほとんどしなかったので、ただひたすら数を重ねていくうちに、「こんな模様を表現したい」と、かたちになっていきました。
祖父の仕事を継いでからの数年間は感謝の気持ちがなくて、「藍染めについて何も教えてもらっていないのになぜ」という思いの方が強かったんですが、感謝の気持ちを持つようになってから、自分の思ういい色や柄が出せるようになったんです。
ですから『ありがとう』というデザインができたときは、自分でも「よかった…」と思いましたね。
伝統工芸を若い世代に広めるために
『綺麗な文化』を発信しているのではなく、『今、自分が楽しい』ということを発信しています。
自分の作品を通して、自分が楽しんでいることが人に伝わればいいなと。
僕は模様のデザインは好きですがかたちを考える能力はないので、模様を型染めした布を「好きなかたちにしてください」と作り手さんにお渡しするんですが、そうやってお任せすることで、僕と作り手さんの表現が合わさって生まれる面白さがあるんじゃないでしょうか。

天野紺屋について

明るいお人柄の融さんと尚さん、仲の良い親子が営む工房とお店を案内していただきました。

工房には古い機織り機が並ぶ部屋があり、ここで融さんが広瀬絣を製作しています。
型紙製作→緯綜台に型付け→括り→藍染め→機織り→仕上げと、精緻な模様を織り上げるまでの工程は複雑でとても手間がかかり、着物一反にいったいどれほど時間がかかるのか…
こうした広瀬絣の伝統の火が絶えることなく、受け継がれていってほしいですね。

お店では尚さんの型染め作品を使った手ぬぐいや小物などを購入できます。
作品はすべて尚さんのオリジナルデザイン、商品も1点物が多いので、気に入ったら迷わずに。

天野紺屋が受け継ぐ糸染めと広瀬絣、そして尚さんが数年前から手がけている型染め。
伝統を守りながら藍の新しい魅力を発信する若き5代目に、これからも注目していきたいです。

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